松平斉厚(なりあつ)在城年数52年(1784〜1836 館林藩最長)
二歳で館林藩主となる。のち浜田藩初代藩主。

松平 斉厚(まつだいら なりあつ)は、藩主松平武寛の長男として生まれ、まもなく父が死去したため2歳で家督を相続する。はじめ武厚(たけあつ)と名乗り、寺社奉行を務める。越智松平家5代目。
(詳しくはwikipedia-松平斉厚を参照)

 生誕 天明3年9月(1783年)
 死没 天保10年11月(1839年)
 父母 父:松平武寛 母:松平頼恭の娘
 兄弟 妹(井上正甫室)、妹(松平乗友室)
 官位 従四位上権少将。
 藩  上野国館林藩主、石見浜田藩。

11代将軍家斉の二十男・松平徳之佐(のちの斉良)を養嗣子(実の娘の配偶者)とし、幕府との結びつきを強め、家斉から名の一字を貰い、斉厚と改名する。館林藩主歴代最長の52年。


斉厚の時代に本丸二重櫓と大手門が完成。
この時代、水害が多発。財政危機に。

斉厚は山崎派の学問を興隆させた。寛政7年、館林に藩学道学館を、江戸藩邸に学文所官◆舎を設立。稲葉黙齋(いなば もくさい)が指揮にあたった。道学館(黙齋が命名した)は、大名小路東端の内伴木にあった。秋元時代でも藩校(「求道館」後に「造士書院」学校・武術稽古所)があった場所。また、城の普請も引き続き行い、寛政11年(1799年)に本丸二重櫓と大手門を完成させた。
【水害など災害多発】
1786年、渡良瀬川・利根川決壊。被害甚大。1791年、大雨で水害。1809年、暴風雨で被害甚大。1816年風水害で被害。1823年、水害と干ばつで被害甚大、幕府から3000両の借金。1824年目車町より出火。大火となり被害甚大。8月に水害。幕府から借金。

文政2年(1819年)館林城下の札の辻(大辻)の西に火の見櫓「箱火の見」を作らせ、同時に火消組(町火消し)も組織させた。

斉厚は水害多発地帯・館林から離れたくなり、所替えを幕府に願い出る。
天保7年(1836年)には館林から越智松平家は石州・浜田に移った。
館林藩統治最長の越智松平家(祖は清武)112年間が終了した。
(2013/02/11追記)

その後、後継者・斉良(11代将軍・家斉の息子)は夭折したため、讃岐高松藩から迎えた養子・武揚(家康の息子・水戸藩の頼房の二男・頼重がルーツ)が家督を継いだ。 天保10年(1839年)死去(享年57)

生田万(よろず)「岩にむす苔」を藩に提出。
藩の重臣の怒りを買い追放処分に。

生田萬は1801年大名小路に生まれる。道学館で学ぶ国学者・平田篤胤の門下になる。文政10年(1827)藩政改革の意見書「岩にむす苔」を藩に提出。追放された。
萬はその後、隣町の太田で私塾・厚載館(天保2〜7年)を開き、天保7年、越後国柏崎へ一家で移住。私塾・桜園塾を開く(いい名だね、センスある)。
天保8年、大阪で大塩平八郎の乱がおこる。柏崎でも米価が高騰し、庶民が困窮。柏崎の代官・伊藤某米商と結託して米価を上げる。生田萬は義憤により奸吏を誅する計画をたて、同士を集め実行。陣屋に突入する。萬、致命傷を受け同志・鷲尾甚助が介錯する。その後、萬の妻は二人の幼子を絞殺し自らは舌をかみ切り自決!
妻・こうは館林藩士・香取庄右衛門の娘である。「生田萬の乱」の哀しい結末だ。
萬の義挙に殉死した妻・鎬は日本女性の鏡として讃えられている。
(2013/02/11追記、2014年6月22日修正加筆。資料「館林人物誌」他)
註)詳しくは2014年8月3日に生田萬サイトをアップしました

※浜田藩
石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城
親藩 6万1千石 (1836年 - 1866年)

斉厚(なりあつ)〔従四位上・右近将監、少将〕<奏者番・寺社奉行>
武揚(たけおき)〔従四位下・右近将監〕
武成(たけしげ)〔従五位下・右近将監〕
武聰(たけあきら)〔従四位下・ 右近将監、侍従〕(第15代将軍・慶喜の実弟)